朝の支度をめぐる、自分との問答
TL;DR
- 朝の支度を、自分自身との問答の形でたどった記事。
- 朝に道具を整える時間は、その日の段取りを決める準備運動になる。
- 柳宗悦らの民藝運動は、日々使う道具の中に美を見いだした。
- 効率だけで測れない「手をかける時間」の役割を考える。
朝六時半。湯を沸かしながら、昨夜のうちに洗っておいた急須と湯のみを布で拭く。なぜわざわざ拭くのか。乾いているのに、と自分に問う。答えはすぐには出ない。ただ、この一拭きをしないと、一日が始まった気がしないのだ。
準備という名の運動
——その拭く時間は、無駄ではないのか。
無駄かもしれない。けれど、道具に触れているあいだに、頭のなかで今日の段取りが整っていく。手は急須を拭き、頭は予定を並べ替えている。手を動かすことが、思考の助走になっている。
——それなら、もっと効率的なやり方があるだろう。
効率を求めるなら、拭かずに使えばいい。だが、効率化できる動作をすべて削っていくと、朝はただ慌ただしくなる。手をかける時間をあえて残すことで、慌ただしさに飲み込まれずに済んでいる。
道具のなかの美
大正から昭和にかけて、柳宗悦らは民藝運動を起こした。日本民藝館の解説によれば、その中心にあったのは「用の美」、つまり日々使われる無名の道具に宿る美しさへの注目だった。特別な美術品ではなく、毎朝手に取る茶碗や布巾のなかにも、見るべきものがあるという考え方だ。
——それは美の話で、支度の話ではないだろう。
地続きだと思う。毎朝同じ道具に触れていると、その手触りや重さが身体に馴染んでくる。馴染んだ道具は、使うこと自体が小さな心地よさになる。手入れをして長く使ううちに、道具と身体の境目が薄くなっていく。
誰のための時間か
——結局、その朝の儀式は誰のためなのか。
自分のためだ、と答えるしかない。誰かに見せるためでも、効率のためでもない。一方で、自分のためだけの時間を一日のはじめに置くことが、その後の時間の使い方を変えていく。最初の十分を丁寧に使うと、残りの一日も少し丁寧になる。
朝の支度に正解はない。拭かなくても湯は沸くし、お茶は淹れられる。それでも、あえて手をかける動作を残すことには意味があると、いまは思っている。効率化の対象から外した小さな時間が、一日の輪郭を作っている。一杯のお茶を淹れるのと同じで、急がないことそのものが、目的になりうる。
参考
- 日本民藝館「民藝運動と用の美」の解説
- 柳宗悦に関する公開された評伝・資料

