朝の坐禅、十五分の余白についての問答
TL;DR
- 朝の坐禅、十五分の余白について、自分との問答でたどった記事。
- 道元の只管打坐は、目的のために坐るのではなく、ただ坐ることを説く。
- 坐禅は宗教的な行であると同時に、姿勢と呼吸を整える時間でもある。
- 「何のためか」を問わずに続けることに、この行の核心がある。
朝、布団から起きて、座布団を二つ折りにする。その上に坐り、背筋を伸ばし、半眼で前方の床を見る。十五分。タイマーは使うが、なるべく時計のことは忘れる。最初の数分は、頭のなかが昨日の続きでいっぱいだ。けれど、それでいいのだと、坐りながら自分に言い聞かせる。
何のために坐るのか
——その十五分で、何が得られるのか。
たぶん、何も得られない。坐ったから集中力が上がるとか、心が落ち着くとか、そういう見返りを期待すると、かえって坐りにくくなる。
——では、なぜ坐るのか。
道元は『普勧坐禅儀』などで、ただ坐ること自体を説いたとされる。曹洞宗で言う只管打坐、すなわちひたすらに坐るという立場だ。何かのための手段として坐るのではなく、坐ることがそのまま行になる。目的を外すことが、この行の難しさであり、核心でもある。
整えるという側面
——宗教的な話なら、自分には関係ない。
そう切り捨てなくてもいい。坐禅には、姿勢と呼吸を整えるという、宗教の枠を超えた側面がある。背筋を伸ばし、ゆっくり息を吐く。それを十五分続けるだけで、身体の状態は確かに変わる。曹洞宗の寺院でも、坐相、つまり坐る姿勢の整え方が丁寧に説かれている。
——それなら、ただの体操ではないか。
体操に近い面はある。けれど、効果を求めて呼吸を整えるのと、見返りを求めずにただ坐るのとでは、同じ姿勢でも内側が違う。前者は手段、後者は目的そのものだ。何もしない温泉での時間と同じで、空白を空白のまま置けるかどうかが分かれ目になる。
続けることの形
——結局、その十五分は役に立つのか。
役に立つかを問うこと自体が、たぶん的を外している。役立てようとすると、坐禅は目的のための道具に戻ってしまう。役に立たなくてもいいから、ただ毎朝坐る。その無目的さに耐えられるかどうかが、続けられるかの分かれ目になる。森をただ歩くのと、よく似ている。
十五分の坐禅で、人生が変わるわけではない。集中力が劇的に増すわけでも、悩みが消えるわけでもない。それでも、一日のはじめに何の見返りもない余白を置くことには、静かな働きがある。予定で埋め尽くされた時間のなかに、目的のない十五分を確保する。その空白が、残りの時間を測る基準点になっている。
参考
- 道元『普勧坐禅儀』および曹洞宗の坐禅に関する公開解説
- 坐禅の姿勢・呼吸に関する寺院公開資料

