にぎわいを離れた温泉地で、何もしない時間
TL;DR
- にぎわいを離れた温泉地で、何もしない時間を過ごした随筆。
- 湯治は、長く滞在して湯に浸かる古くからの過ごし方だ。
- 環境省は、自然環境に恵まれた温泉地を国民保養温泉地として指定している。
- 観光的な消費から降りると、温泉地は別の顔を見せる。
夕方の湯に浸かっていると、外で何かが落ちる音がした。雪だ。屋根からまとまって滑り落ちたらしい。それきり、また静かになった。観光地として有名な温泉ではない。土産物屋もほとんどなく、することが見当たらない。そのことが、来る前は少し不安だったが、着いてみると、することがないのがちょうどよかった。
湯治という過ごし方
温泉には、湯治という古い過ごし方がある。数日から数週間にわたって滞在し、湯に浸かりながら体を休める。観光のように名所を巡るのではなく、ただ同じ宿に留まり、湯と食事と睡眠を繰り返す。日本温泉協会などの資料でも、湯治は温泉文化の一つの形として位置づけられている。
環境省は、自然環境や効能の点で優れた温泉地を「国民保養温泉地」として指定する制度を設けている。観光的なにぎわいよりも、療養や休養を主眼に置いた区分だ。私が滞在した温泉地も、派手な施設はないが、静けさという点では申し分なかった。
何もしないことの難しさ
到着した初日は、かえって落ち着かなかった。スマートフォンを手に取り、予定もないのに画面を眺める。何もしない時間に、身体がまだ慣れていなかった。二日目になって、ようやく窓の外の雪をぼんやり見ていられるようになった。何もしないことには、慣れが要る。
もっとも、誰にとっても静かな温泉地が正解とは限らない。にぎやかな温泉街には、それはそれの楽しさがある。湯上がりに食べ歩き、土産を選ぶ時間も悪くない。ここで言いたいのは、選択肢として「何もしない滞在」を持っておくと、旅の幅が広がるということだ。森を歩いて速度を落とすのと、目的は近い。
消費から降りる
観光は、ともすれば時間を消費し続ける行為になる。次の名所、次の食事と、予定を埋めていく。一方で、何もしない滞在は、その埋め方をいったん手放す。朝に余白の時間を置くのと同じで、空白そのものに身を任せる練習だ。
静かな温泉地で過ごした数日は、振り返れば何もしていない。写真もほとんど撮らなかった。けれど、その「何もしなさ」こそが、ふだん埋め尽くされている時間の輪郭を浮かび上がらせた。予定を消化することだけが旅ではない。湯に浸かり、雪を眺め、また浸かる。それだけの時間に、確かな手応えがあった。
参考
- 環境省「国民保養温泉地」制度の解説
- 日本温泉協会「湯治と温泉文化」に関する資料

